Running and Thinking 松本唯人ブログ

12歳から一人旅を始め、日本全国・海外20数カ国を旅した松本唯人(23)のブログ。台湾自転車旅やイスラエル、キューバ旅など、旅先での情報や日本人留学生のインタビュー記事を不定期で更新しています。近況はinstagram(@yuito.mtmt)で更新中。普段は株式会社TABI LABOでライターとして働いています。

中高時代2

 昔、とても怯えていたことがあります。それは、中学時代に部活を休む事です(野球部でした)。今では、とても不思議に思いますが、当時は1日でも部活を休むことに対して恐れのようなものを抱いていた記憶があります。

 顧問の先生はとても理解のある方で、仮に何らかの事情で休まなければいけなくなったとしても、それを咎めず(ごく当たり前ですが)快く承諾してくれました。しかし、1日でも練習を休むと、試合に出る機会がなくなってしまうのではないか、次に練習に参加した時に上手くプレーができないのではないかなどと思ってしまい、毎日練習に参加していました。

 部活から学んだことは多々あります。むしろ、中学時代に学んだ事といえば部活からの経験くらいです(部活に最も多くの時間をかけた気がします)。しかし、当時を振り返って考えてみると、時には部活を休んで、もっと色んな事に取り組めばよかったなと思います。

 そして、一番の反省点は、部活以外の何かに取り組まなかった点ではなく、部活以外の何かを選択するという発想力が無かった点だと思っています。まさに、部活に参加するという当たり前の事象を疑う事ができませんでした。

 他にも昔の反省点はたくさんありますが、悔やんでも仕方がないので、中学校や高校などで授業をする時に「なぜ毎日部活に足を運んでいるのか」や「宿題を提出しなかった時、なぜこっぴどく怒られなければいけないのか」(宿題はしっかり提出しよう!)などについて中高生に問いかけるようにしています(中には、とても険しい表情をされる先生もいます)。  

 先生たちに反逆せよ、と中高生を煽っているのではなく、普段の生活に対して疑問をぶつけてみる事が、何かの役に立つのではないかと思っているのです。

 

 

 今日は、中高時代についてのお話です。

 

 

  • 日常の中でジタバタしていました

 よく聞かれる事があります。中高時代も旅をしていたのか、という質問です。これも今では反省している点ではありますが、中高時代は外の社会へあまり出て行こうとせずに過ごしていました(基本的に、旅はしませんでした。いくつかの例外はあります)。

 

  • 部活期と受験期

 中高時代を、とても大きな枠組みでバッサリとふたつに分けてしまうのであれば、部活期(部活に囚われていた時期)と受験期(受験に囚われていた時期)に分ける事ができると思っています。中学時代が部活期で、高校時代が受験期です。

 

 中学時代は部活に多くの時間と全ての体力を捧げました(そのわりには、飛躍的な野球スキルは身に付きませんでした)。集団行動の基礎を学べたり、今でも繋がりのある大切な友達を作ることができました。一方で、前述の通り、部活という枠の中に閉じこもり、外の社会へ一歩踏み出していくような行動力や好奇心は小学生の頃に比べて、衰えていってしまったように思えます。

 事あるごとに、部活を理由にして、参加すると有意義であろうイベントや普段とは異なるコミュニティとの交流会などへの出席を拒んでいました(時々、そういったイベント等への参加を親に勧められましたが、頑として行かなかった記憶があります)。

 

 そして、中学校3年生の夏に部活を引退し、高校1年生の冬ごろまでフラフラしました(言葉の通り、フラフラしました)。

 

 高校1年生の冬頃から、受験期に入ります。つまり、モノの価値を受験に関係あるかないかで判断するような、好奇心のカケラもない高校生になっていきました。帰宅部だったので、この頃から学校が終わると予備校の自習室のこもるようになっていきました(今、思い出しましたが、こもった時間のわりには、勉強ができるようにならなかったので、とても悲しい気持ちになります)。

 この時期もまた、事あるごとに受験勉強を理由にして、多くの有意義な機会への参加を拒み続けていました。

 

  • 全部がタメになる

 書いていて思いましたが、中高時代は好奇心が失われていたように思います。特に、受験期は「それって受験に関係あるの?」とか生意気な事を常に思っていました。

 今となって、受験科目とは関係のなかった数学や物理、化学などの理系科目を勉強する意味を痛感しています。それに、昨日の記事でも書いた通り、本を読むことだってタメになるし、何かのイベントに参加して普段とは違ったコミュニティの人とおしゃべりをする事だってタメになったでしょう(今の僕は、そう思います)。

 

 

 前々回、中高時代の記事を書いたときに、当時の記憶を引っ張り出しました。その時、大学生になって好奇心が爆発した(自分では好奇心旺盛な方だと思っていますが、どうでしょう?)のは、中高時代に様々な事の内側に引きこもり過ぎた生活をしていた事が原因なのではないかと、ふと思いました。つまり、良くも悪くも、中高時代に無意識に「何かに囚われて過ごしている感」(当時は気づいていませんでしたが)を感じていた体験が、結果として自ら行動していくような主体性(カッコよく言うと)みたいなものを生む要因になったのではないかと思います。

 

 そのような結果を生んだきっかけが思い浮かびました。それは、大学1年生の時の、いくつかの体験にあるように思います。

 

人のギャップ

 男の子は女の子のギャップに弱い。たまたま目にした、女子中高生向けの女性誌に、そんな風に書かれていた(なぜ僕は、女子中高生向けの雑誌をたまたま目にしたのだろう)。おそらく、それは「ギャップ萌え」といわれる現象だと思う。普段、学校では活発な女の子が、私生活ではとてもガーリーな服(どんな服?)を着ていると、男の子は胸キュン♪するらしい(女性誌風に表現すると)。とても大雑把に解釈すると、僕たちは人間なのだから、普段は知らない他者の一面を目にすると、何かしらのトキメキ(興味が湧く事)があるという事なのではないだろうか。言われてみると、そういった現象はしばしば存在する。

 

 書類では伝えきれない部分を伝える事が、面接では大切らしい。少し前に、多くの面接を経験した友人が言っていた。彼女の助言を素直に受け入れ(その素直さが長所でもある)、書類では伝えきれない部分について考えてみようと思う。

 

 まず、書類で伝わる部分とは何だろうか。僕の書類(ES、履歴書)には、一人旅や自転車、マラソンといった、脳内が経験主義信仰と筋肉でパンパンに膨れ上がっていそうな言葉がズラリと並んでいる。それらを読むと、おそらくアウトドアな人物像(良い意味で捉えると)が思い浮かぶのではないかと思う(あくまで自分の推測だけれど)。つまり、書類ではアウトドア風な雰囲気が伝わる(と思う)のだから、面接ではそういった部分以外についても語らなければいけない(語る事を求められる状況が、いつか訪れるかもしれない)。

 とても単純に考えると、アウトドアではない部分(机に座って何か考え事をしますよ、みたいな部分)を準備しなければいけない。さて、僕にはインドア的な要素があるのだろうか。ひとつだけ思い当たるフシがある(今のところは)。

 

 それは、読書好きという部分だと思う。ちょっとしたきっかけがあって、大学1年生の夏が終わろうとする頃から本を読み始めた(本が読めるようになった)。なので、中高時代までの僕を知っている人は、僕が読書好きであるという事は、とても信じられないと思う(中高時代までは、全く読まなかったし、1ページも読めなかった)。

 

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*先月読んだ本。大学生には(中でも、僕には)たくさんの時間がある。

 

 

 しかし、読書が趣味です!と声高々に言ってしまうと、読書を趣味とするホンモノの人たちに冷たい視線を送られてしまいそうなので(趣味にホンモノもニセモノもないのだけれど、読書を趣味と言うには、純文学作品を片っ端から読んでいないと図書館のヌシ的な誰かに怒られそうな気がする)、「毎日、文字を眺める事が幸せ」や「デートの最中でも、本を手に取りたい」(こんな男には捕まりたくない)というくらいの緩い意味で「読書が好き」という一面も持っているという事を主張していきたいと思う。

 

 ちなみに、読書が好きな理由は、足を止めてじっくり物事を考える事によって知らない事を学べる(一人旅に味付けをしてくれる)からで、その部分に魅力を感じているのだ。

 

中高時代1

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*今朝のランニング風景

 

 組織で活動した話も必要らしい。就職活動は、会社という組織に入るための活動なのだから、自分が組織の中ではどのような役割を担えるのかを自覚し説明できるように準備する事は、ごく当たり前の共通認識なのかもしれません。

 昨日、中高時代の友達に会いました。彼は、多くの面接をクリアし、すでに内々定をもらっていたので、面接の体験談をいくつか尋ねました(僕はまだ2回しか面接を受けた事がありません。そして、2連敗です)。これまでの経験を基に、彼がくれたアドバイスは、組織で活動した話はしっかり準備しておいた方が良いとの事でした。

 アタタタタ…。GW初日にも関わらず、頭が痛くなるようなお話でした(誕生日が近いですが、それどころではありません)。4月上旬に、面接で落ちてしまった時に面接官に言われた一言は「あなたは組織に入らない方が良いんじゃない?」でした。サクッと落された面接の状況が、フラッシュバックしてきます(なぜか、よく覚えています)。

 僕の履歴書には、面接官もびっくりするほどに、組織で活動したお話は登場しません(むしろ、一人・個人といった素敵な言葉が並んでいます)。もちろん、大学時代はサークルや部活には所属したことはありません(だって、お金がかかるんだもん!)。困っちゃいました。御年22歳を迎えるオジサンは、大学以前の昔話を思い出すしかありません。では、気合いを入れて記憶をたどっていきましょう。

 

 

 今日は、中高時代のお話です。

 

  • どんな中高生だったのか

 絵にかいたような、模範少年でした。と、言いたいところですが、こんな事を言っていたら当時のお友達(先生たちまでも)が暴動を起こしかねないので、これから時間をかけて説明していきます。

 どんな中高生だったのでしょうか。おそらく、クラスに一人か二人はいる「騒がしい男子生徒」の一味だったと思います。今思い返すと、クラスメイトに多大な迷惑をかけて過ごしてきたのだろうと思います(たぶん、読書好きの女子生徒にとっては、悪魔のような存在だったでしょう)。

 

  • どんな集団に所属したのか

 そんな僕ですが、主にふたつの集団(面接官的に言うと組織)に所属していました。野球部と生徒会です。中学時代は野球部で高校時代は帰宅部、生徒会は中学3年から高校2年まで所属していました。

 

 

  • どんな役割を担えるのか

 では、それらの集団の中ではどんな役割だったのでしょうか。結論から言うと、野球部では主将、生徒会では中学3年~高校2年まで3年間生徒会長を務めていました(信頼があったとか職務をこなせていたかは別として、結果としてそのような役職でした)。

 どうやら、中高時代はしっかりと集団に所属し、仲間と連帯感(共同体意識)を持って行動していたようです(次はしっかりと面接官にお伝えしたいと思います)。並べられた文字だけを見ると、「野球部・主将」「生徒会・会長」と、使えそうなネタではありますが、内容としては特に豪語できるものではありません。野球部は県大会には進んだものの特に強豪チームではなかったし(バレー部が強くルックスが粒ぞろいだったので、汗と土まみれの僕らが勝利しても女子生徒は全く見向きもしませんでした)、生徒会も特にこれといった取り組みは行っていませんでした(メンバーが揃わない朝の挨拶運動と熱心なキャップ集めくらいでした)。

 ですが、面接ではなんとかして集団での活躍をアピールしなければなりません(友達は皆、中高時代の体験を語っているようです)。僕はどんな活躍ができるのでしょうか(役割を担えるのでしょうか)。

 

  • 色んな人とお話ができる

 僕には、リーダーシップがあります!…と言ってしまうと、活発にリーダーを担ってきた人たちにとても申し訳ないので、ここでは「まとめ役に向いている」や「集団の中で人と人とを繋ぐ媒介者としての対話力がある」という風に表現する事にします。

 僕には、どんな人とでも対話できる力があるのではないでしょうか。ここでも、小学生時代の旅の経験が生きているのだと思います。そして、誰とでも気兼ねなく話す事ができる(僕の側が嫌われている場合は、また別の話になりますが)という点が、所属していた集団で「まとめ役」や「調整(仲介)役」といったポジションに向いていたのだと思います(当時の同級生がどう思っていたのかは分かりません。教えてください)。

 

 

 

 嬉しい事に、僕にも集団での体験があったようです。これで、次に面接で問い詰められた時に、余裕を持って発言できるかもしれません。

 中高時代の記憶をたどっていると、集団体験だけでなく、どんな中高生だったのかという点で、今(大学入学後)とは違う自分がいたような気がします。何が違ったのでしょうか。もう少しだけ、薄れかけている当時の記憶をたどっていきましょう。

 

 

僕のキーワード その4「ドイツの街づくり政策」

 

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*2015年夏・東京~宮崎1500km自転車旅 山口県錦帯橋(きんたいきょう)

 

 

 自転車で放浪していると、ふたつのタイプの「泉ピン子的な女性」に遭遇します。ひとつは、奇怪の眼差しを向けあからさまに僕を避けて先を急ごうとするタイプ。もうひとつは、眉間にしわを寄せつつも「あら、お兄ちゃん、どこから来たの!?」と好奇心に耐え切れず声をかけちゃうタイプだ。幸い、圧倒的に後者のような優しい「泉ピン子的な女性」に出会う機会が多かった気がします(彼女たちは決まって、手作りのお守りか飴をくれる)。

 

 旅をしていると、日常生活よりも多くの(場合によっては、かなり多くの)人たちと出会う機会を得る。小学生時代は考えられなかったけれど、今ではSNSの普及で出会った人たちと「繋がる」ことができ(改めて言う必要もないが)、色んなタイミングが合えば、いつかどこかで再会する機会を得ることもできる(一度再会すれば「一生もの」の友達になれる、気がする)。

 つまり、人との出会いを通して何かを学んだ気がするのだ。では、何を学んだのでしょうか。それは、僕(たち)にとって大切な事は「人とのコミュニケーション」だということです。

 小学生の頃から、せっせと旅をして、様々な人たちとコミュニケーションをとったことによって、無意識のうちに「人とお話をする楽しさや大切さ」を感じていたように思います。  

僕に声をかけてくれた日本全国の「泉ピン子的な女性」や東北弁と宮崎弁で会話が嚙み合わなかった山形県のおばあちゃん、岐阜県の小学校で昼休みに僕を強引に蹴り野球に誘ってくれた女の子など、いつしか色んな人とのコミュニケーションは、ゲームキューブPSPでゲームをするよりも、楽しく好奇心が湧くものになっていました(我が家はゲーム禁止でしたが)。

 特に、僕の地元・宮崎市を始め日本の地方都市の、閑散とした中心商店街を見て、「たぶん、この状況(中心商店街という市民のコミュニケーションの場の役割が低下している状況)って悲しい現実なんだろうな」と、漠然と感じていたのではないかと思います。

 そのような漠然と感じていた思いが、具体的に「どうやら日本の地方都市って今のままではいけないみたいだ」といった思いに変化した出来事があります。

 

 今日は、初めてドイツを訪れたお話です。 

 

 

  • ドイツってどんな国?

 小学校6年生の秋頃から卒業の時期にかけて、学校の図書室でドイツに関する本をひたすら漁っていた記憶があります(図書室に行くなんて珍しい出来事だったので鮮明に覚えている)。卒業後、中学の入学式までの約2週間を使って、ドイツ(とフランス)へ行く予定があった事がきっかけです。

 それまで、ほとんど海外へ行った経験はなく「ドイツって何があるのだろう」と純粋な疑問を抱きました。総合学習の授業で、「興味や関心がある事を調べてみよう」という課題があった事もドイツについて調べる良い機会となりました(PCルームでネットも活用しましたが、当時は頻繁に“フリーズ”して作業が中断されたのを覚えています)。

 

 ドイツに飛びましょう。ドイツで、最も印象深かった都市があります。それは、南部に位置するフライブルクという都市です。

 フライブルクは、名の知れた環境先進都市で、とても簡単に言うと『路面電車や自転車を活用した車のない「持続可能で魅力的な」街づくり政策』を行っている地方都市です。

 つまり、街中に車はなく(中心部の直径約700mの範囲では車の立ち入りが禁止されている。荷下ろしや緊急車両など許可された車は通行可能)、市内には自転車道路と路面電車の公共交通網が広がっているため、子供からお年寄りまでが便利に移動でき中心商店街に人が多く集まるような街づくりがされています(詳しくは、僕のような素人の解説ではなく、専門家の方の本をお読みください)。

 

 「中心商店街に人がいる!日本では見た事ない!」

 

 とても大げさな感想かもしれませんが、平日の昼間にも関わらず、大勢の人(言葉通りの大勢の人々)が中心商店街に溢れている風景を見て、「宮崎(日本の地方都市)も、こんなに楽しい街だったらいいなぁ」と率直に思いました。

 フライブルクの街並みを見て、シャッター通りが拡大し閑散としている街よりも、多くの人で溢れ活気のある街に住みたいと思うようになりました。

 

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フライブルクの中心商店街(平日の昼間の様子)

 

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*村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』2017 学芸出版社

 

  • モデルケースを知る

 フライブルクを訪れるまでは、「日本の地方都市の現状ってなんかダメなんじゃない?」と漠然と思っていましたが、改善策は何なのか、何がダメなのかといった具体的な事はいまいち分かりませんでした。

 ですが、フライブルクの街並みを見て地方の街づくり政策のモデルケース(もちろん、容易にマネできるわけではないし、マネすれば良いという訳でもありません)を知る事ができました(1950年代までは、フライブルクも車社会で中心商店街に人が集まらないという、いわゆる「地方都市の問題」を抱えており、それらを克服したという点で、モデルケースという部分だけでなく、なぜ成し遂げる事ができたのかというプロセスも学ぶことができると思います)。

 

  • 街づくりへの関心をどのように生かすか

 初めてフライブルクを訪れた事を境に、僕の関心は「街づくり政策」を軸として派生していくようになりました。これまで、4度フライブルクへ行きましたが、何度訪れても「また行きたい」と思うくらいに、この街に魅了されています。

 そこで、今後の課題が浮かび上がってきました(書きながら、ふと思いました)。「街づくり政策」という関心を、今後どのように(どのような分野で)生かしていくかという点です。現時点では、街づくり政策や公共交通政策等に特化した学部学科に通っているわけではありません。よって、現実的に考えてその道に精通した「専門家」になるという可能性は極めて低いと考えられます。

 では、12歳の頃から抱いている関心をどのように生かせばいいのでしょうか。いくつか思う事があります。

 

 

「取材を行い、記事として広める」(専門家と市民を繋ぎ、議論の場を作る役割。記者のような仕事)

 

「シェアリングエコノミー分野でのバイクシェアやカーシェア、自転車交通推進・普及などといった事業に携わる」(日本で広くは普及していないが、TimesやDOCOMOバイクシェアなどが事業を行っている)

 

 

 まだまだ熟考する余地がたくさんある考えですが、今のところ「街づくり政策」という関心を生かすのであれば、上記のような関わり方があるのではないかと思っています(現段階では、そう思っています)。

 

 

 今日で、5回目の更新となりました。これまで、記事を読んでくださった何人かの方々からアドバイスをいただきました。混迷を極めている就活生にとっては、とても勉強になります。ありがとうございます。

 先はまだまだ長そうですが、書きながら自分の考えている事を整理していきたいと思います。よろしくお願いします。

 

 

僕のキーワード その3「エコ息子」

 

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*いつも携帯しているマイ箸。入れ物は笛にもなる(演奏はスキル的な問題でできない)。

 

 

 僕には、あだ名がない。全くなかったかと言えば嘘になるけれど、これといって定着したあだ名はない。呼ばれる時は決まって、「松本君」「ゆいと」「ゆいちゃん」(…あ、これがあだ名なのかもしれない)と呼ばれる。

 あだ名で呼ばれている人を見かけると「どんなタイプ(人間性)の人が、あだ名で呼ばれるのだろう」と素朴な疑問として真剣に考えてきた(もっと他の事を真剣に考えるべきだと思う)。

 イマドキの「社員と語り合う系」の就活イベントでは、決まって白紙の名札が渡される。「フルネームとニックネーム(あだ名)を記入してください」という言葉も添えられる。先日、リクルートという会社の就活イベントに参加した。学生3人と社員1人がひとつの班になり、それぞれの未来について話すイベントだった。そこでも、みんなあだ名を持っていた。「ヨシコ―」「エイミー」…。久しぶりに「あだ名問題」について、真剣に考えた。

 

 先週、小学校時代の友達(4人)に会った。彼らと話していると、「あだ名問題」の行方に大きな影響を及ぼす事実が発覚した。

 僕にもあだ名があったことを思い出したのだ。正確に言うと、「小学時代」「中学時代」「高校時代」…と、一貫して定着したわけではないが、それぞれの時代でふと友達から言われたことのある呼び名があった。

 

「エコ息子」

 

 これまで、あだ名なのか遠回しの嫌味なのか分からない、このあだ名で呼ばれた事が何度もあった。なぜだろう。友達はこう言っていた。

 

「親父がエコロジストだから」(事の発端だと思う)

「お弁当が玄米と煮干しだったから」(友達にとって、玄米を食べていたインパクトはかなり強かったらしい。僕のお弁当のことについて、僕より鮮明に覚えていた)

「お店で、レジ袋をいつも断っていたから」

「マイ箸を持ち歩いているから」

 

 

 久しぶりに会った友達がこんな事を言っていたので、自分の「エコ息子歴」について考えていると、小学時代までは「親父が~」「お弁当の内容が~」のように自分の選択ではないエコ活動による「受身的なエコ息子」だったけれど、中学時代以降は「レジ袋を~」「マイ箸を~」といった自らエコ活動を志す「主体的なエコ息子」へと変化していったと思う(正しくは、小学時代に「エコ」を受けすぎて、無意識のうちに「エコ的な行動や思考」が身についてしまったという感じだ)。エコ息子という枠組みの中にも、「抑圧型」と「解き放つ型」があるらしい。

 僕は、中学から私立の学校へ通ったため、小学校の友達の僕に対する記憶は、ほとんどが約10年前の「松本唯人」でストップしていて更新されていない。そんな彼らと話していると、昔の自分について客観的に振り返ることができたと思う。エコ息子を忘れずにいてくれた彼らの優しさに、「ありがとう」と感謝したい。

 

 

 今日は、僕のキーワードのひとつである「社会問題」についてお話します。

 

 

  • ここでもやはり、父の影響

 僕の「社会問題」への関心が生まれ始めたのは、小学生の頃だった。賢い小学生だった…わけではない(残念ながら)。自分が置かれた環境的に、意識せざるを得ない状況だったのだと思う。では、具体的なきっかけは何か。それは、父が環境問題に関わる仕事をしていて、その講演会の手伝いを小学校3年生の時から始めたからである(そう思っている)。

 つまり、父と自転車で日本全国を旅しながら、環境問題の講演会の手伝いをするという状況に置かれた事が、「環境問題」という、みんなで考えて解決していかないといけないらしい問題に接する機会となり(父のセリフを覚えるほどに、毎日講演会を聞いていた)、結果的に社会問題という事柄に目を向ける要因になったのだと思う。

 

 

  • 「抑圧型」から「解き放つ型」へ

 小学生時代は、基本的に「抑圧型」としての環境問題への関心だった。そもそも、父の仕事の手伝いも圧倒的な上(父)からの命令(大声では言えないが)だったし、90分(時に120分)の講演会でずっと座って、合図が送られるたびにスライドのボタンを押すという長丁場のお手伝いは、10歳の野球少年にとって、全ての欲を抑え我慢を追い求める修行としか思えなかった。

 そんな「抑圧型」から、自ら環境問題(社会問題)に関心を向ける「解き放つ型」へと変化した(進化した?)のは、小学校6年生も終わりに近づいた時期だったと思う。

 

 

「唯人、ドイツへ行くぞ」

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*当時はドイツと言えば、サッカーかソーセージくらいしかイメージできなかった。ドイツ・フライブルクにて撮影(2011) 

 

 

 お察しの通り、父の一言だ。いつもなら、暗い気持ちになり、大淀川(宮崎市に流れる一級河川)に向かって叫びたくなる所だが、どういうわけか今回は違った。

 「ドイツ」。いつもとは違った響きだった。能登半島・輪島、北海道・長万部、福岡・飯塚…じゃなくて、「ドイツ」。なんか、イメージが湧かない。頭をかしげながら、小学校の図書室へ足を運んだ。

 

 

僕のキーワード その2「旅」の始まり

 

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*今朝のランニング風景

 

 運命的な出会いは、何度訪れるのでしょうか。直感的にビビっとくる相手と出会う事ができたら、毎日がキラキラと輝き始めるのかもしれません。

 「大学時代、運命的な出会いはありましたか?」。こんな気障(きざ)な質問をする面接官がいるのか分からないけれど、もし聞かれたら答えは準備できています。

 

社会学と出会いました!!」

 

 僕は、大学で社会学を専攻している。もちろん、大学院で研究を志すほどに精通しているわけではないけれど、高校時代まで知らなかった社会学に触れた事は、物事の考え方が多面的になった大きなきっかけになったと思う(高校時代までは、乏しすぎるほどに一方向的な考え方しかできなかった)。

 社会学系を専攻している学生が最も恐れる質問がある。「社会学って何?」。コレだ。教授に質問しても、「うーん、一言では言えませんねぇ」と返ってくるくらいだから、学生が社会学の説明に困るのも仕方ないのかもしれない。

 ピーター・バーガーという、アメリカの社会学者が、社会学的好奇心の在り方についてこう言っています。

 

 

社会学者とは、アカデミックな肩書がなければ、ゴシップに熱中してしまうに違いない人であり、鍵穴をのぞき、他人の手紙を読み、引き出しを開けようと心をそそられてしまう人物に過ぎない」(ピーターバーガー『社会学への招待』1963)

 

 

 社会学(者)は、公式的見解の背後にある構造に興味を持つらしい。つまり、当たり前とされている事を疑う学問なのだと思う(多くの社会学科生が色んな場面でこう説明しているのではないかと、勝手に思っている)。

 生まれてから18年間も、当たり前の事に従順だった(つもりだ)僕にとっては、社会学を知ったのはまさに「運命的な出会い」だったと思っている。「当たり前を疑う」。こんなにも面白くてワクワクする考え方を知り、毎日の生活が飛躍的に楽しくなったと思う。

 

 

 

 さて、僕には「旅」「教育」「社会問題」という3つのキーワードがあり、中でも「旅」が全てのキーワードの原点になっているというのは前回説明しました。では、「旅」のきっかけは何だったのでしょう。

 

 

 

「唯人、明日は学校を休みなさい」

 

 小学校3年生の時に、父に突然言われました。太陽サンサン、太平洋真っ青という、南国・宮崎で生まれ育ち、毎日河原で走り回り、年中半袖短パンだった(クラスに一人はいたよね?)僕は、何の疑いもなく「うん、休む!」と言って、父の甘い言葉(文面上は)を素直に受け入れました。

 しかし、学校を休みなさいという父の「公式的見解」の背後には、日本に義務教育を設置し発展させてくれた人々も口が開いてふさがらないような、独自の教育方針(裏の構造)があったようです。

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*南国・宮崎の真っ青な海

 

  • 学校を休み、父の手伝いで日本全国へ

 その日を境に、僕はちらほらと学校を休むようになりました。1~2週間程度休み、学校へ行き、また休み…の繰り返しでした。何をしていたかと言うと、父と一緒に日本全国を自転車で周りながら、父の講演会を手伝っていました。

 

  • クラスメイトの素朴な疑問

 クラスメイトたちからは「どうして休んでたの?」と、ごく当たり前の質問を受けましたが、父の仕事内容を上手く伝えられなかったし、父は世間のお父さんたちとはズレていて恥ずかしいと思っていたので(中学生の頃に尊敬のまなざしになりました)、ちゃんとした返事はできなかった気がします。友達の理解としては、「松本君の家には少し(かなり)変わったパパがいるらしい」という所で落ち着いたのではないかと思います(当時のクラスメイトのみなさん、どうですか?)。

 

  • 旅が生んだ、好奇心

 父の教育方針は、「旅をさせる」「親がどんな仕事をしているか見せる」でした。毎回、「来週からOOへ行くぞ」と突然告げられ、九州男児頑固一徹父親に対して拒否権なんてなかったので、当時はとても嫌な気分で渋々ついていきました。

 学校や少年野球の公式戦を休まなければいけかったのは、小学生なりにとても辛い気持ちになりましたが、「旅」はとても魅力的に感じていました。北海道から沖縄まで、父が講演会を行う多くの小学校で1日体験入学をしたり(彼らは今何をしているのだろう)、スーツ姿のかしこまったオジサンたちがいる中で、せっせとお手伝いをする事は普段は体験できないもので面白いなと思っていました。小学生の頃に、様々な社会を見る事への好奇心が生まれたという点では、大学で社会学を専攻する上で少しは役に立っているのかもしれません。

 

 

 「次は一人で旅してみたい」

 

 ある日、父にこう告げていました。「よし、行ってこい」。父は、淡々と返事をしましたが内心はガッツポーズだったと思います。

 時すでに遅し。親子旅を始めて2年が経過し、僕は知らないうちに「旅」に魅了されていました。僕のキーワードの1つである「旅」が、産声を上げた瞬間でした。

 

僕のキーワード その1

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*今朝のランニング風景

 

 かわいい子には旅をさせよ。まさに、そんな家庭で育ちました。父は、エコロジスト。世界130ヶ国を自転車で旅し、環境問題の講演会活動を行い、日々の生計を立てています(立てているらしいです)。

 僕の趣味や個人的な活動を知っている方は、「唯人くんは、お父さんから大きく影響されているね」と言うかもしれません。疑う余地もなく、その通りだと思います。父からは、お上品で文化的な趣味を受け継ぐ事はできませんでしたが、かわりに「旅体験から学ぶ」というアグレッシブで時に強引な手段を受け継ぎました。色白で愛らしい顔をしていた幼少期の僕が、日に焼けた汗だくの少年に成長してしまったのも、父の影響(責任)かもしれません。

 

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*2011年(中学3年)スペイン・マドリード~モロッコ1000km自転車旅

 

 

 今日は、自己紹介をします。

 

 僕のキーワードは「旅」「教育」「社会問題」の3つだと思います。まず初めに、大学時代にどんな活動を行ってきたかを紹介します。

 「一人旅体験を伝える活動」を行ってきました。一言で表すとこのような表現になりますが、これでは活動における5W1H(「いつ」「どこで」「なにを」「誰が(誰に)」「なぜ」「どのように」)がさっぱり分かりません。

 僕の人となりについて知るには、実際に企業に提出したエントリーシート(ES)が一番分かりやすいかもしれません。では、以下の文章をご覧ください。

 

 

  • 新聞記者を目指すきっかけを教えてください(新聞社・ES)

 12歳から始めた一人旅の体験を伝える活動がキッカケだ。「平和と教育」をテーマに海外20ヶ国・日本全国を自転車で旅した。大阪西成区・一泊300円の宿生活、中国・南京の大学生との交流、ポーランドアウシュヴィッツユダヤ強制収容所への訪問などの体験を通して、見聞きし考えた事を各地で撮影した写真を使って伝える活動を行った。

 大学入学後に始めた、子供食堂や学習支援ボランティアで、子供の貧困問題を目の当たりにした。社会問題の解決には人々が主体的に考え取り組む事が必要だと感じた。自分にできる事は何か。社会問題について「知る場」を作ろうと思い、活動を始めた。

 大学2年生の夏から、地元・宮崎県の中学高校を中心に21か所で「共に伝え、共に考える」をコンセプトに授業を行った。体験と人との交流を通して、「知る」「伝える」「互いに考える」ことに、楽しさを感じた。「伝える仕事をやりたい」と思い、記者を目指すようになった。

 

 

  • あなたのアピールポイントは何ですか?(新聞社・ES)

 「旅費が、足りない」。2か月後、企業2社と18名の個人から協賛を得て旅に出た。主体的な行動力が、私の強みだ。

 2015年の夏、株式会社モンベル宮崎日日新聞社から協賛を得て、ドイツ・チェコポーランドを3週間、西日本を2週間、旅した。目的は、アウシュヴィッツや広島を訪れ、海外と日本の「負の遺産」から平和について考える事。一人旅体験を学校などで伝える事の二つだ。

 歴史を知り、「平和」を考える。「未来」を考える事も必要だと思った。ドイツでは、環境先進都市・フライブルクを訪れた。路面電車や自転車を活用した車のない「持続可能で魅力的な」街づくり政策について、現地の環境ジャーナリストから教えてもらった。帰国後、東京・渋谷から地元・宮崎間1500kmを自転車で旅し、滋賀県と宮崎県の高校で授業を行った。

 体験から物事を考え、発信する。自分にできる事から始めた。目標達成に向けて、妥協せず主体的に取り組む姿勢を活かしたい。

 

 

  ESからの引用なので、とてもゴツゴツした文章ですが、なんとなく僕の人となりの「一部」についてお分かりいただけたと思います。これを読んだ中高時代の友達は、「こんなまともなやつじゃない」「もっとふざけてただろ」と怒り心頭かもしれませんが、僕の高校以前のお話はまた別の機会にするので、大目に見てください。

 

 さて、僕のキーワードは「旅」「教育」「社会問題」と言いました。これらは、ひとつずつが独立してもいますが、混ざり合ってもいるようです。キーワード別で文章を書こうとしましたが、部分的に重なる点が多く、書けませんでした。(これは新しい発見です!)

 この3つのキーワードの原点は何なのでしょうか。おそらく、「旅」の始まりが他の2つのキーワードを生むキッカケになったのではないかと思います。では、旅の始まりはいったい何がキッカケだったのでしょうか。それは、僕が小学校3年生の頃にさかのぼります。

 

 

「唯人、明日は学校を休みなさい」

 

 ある日、父に言われた一言が全ての始まりでした。