大学時代#8「僕のお客様対応について」
大学1年生の秋学期が始まった頃(10月頃)、何かしなくちゃいけないと思いました。約2か月間のアメリカ滞在を通して、経験のみから物事を考える自分の価値観について、限界を感じたからです(詳しくは「アメリカ編」の記事をお読みください)。
たぶん、自分は机に座って頭の中にいろんな事を入れなくてはいけないのだろうなと思いました。言語を知らない赤ちゃんが、言葉で感情を表せないように、仮に豊かな経験があったとしても、社会で起こっている事象の様々な情報や多くの人たちの物事の考え方などを知らなければ、体験を自分の言葉で表すことができないと思いました。そこで、何も知らずに専攻していた社会学に触れてみる事から始めました。
- 体験を言語化する
「へぇ~、面白いなぁ」と思った社会学理論の中に、「文化資本論」というものがあります(僕の理解度が平均的な社会学科生に過ぎないので、とても表面的な説明ですがご紹介します)。
フランスの社会学者にピエール・ブルデューというオジサンがいます。彼は、著書『ディスタンクシオン』の中で、階級現象を生産し再生産している要因に「文化資本」があると述べています。
カイキュウゲンショウ。サイセイサン。ブンカシホン。やれやれ、こんな小難しい事を言われてもさっぱり意味が分かりません。とっても簡単な解釈をすると、つまり「あなたがテストで高得点を取ったのは、あなたの努力や能力ではなく(だけでなく)、その能力や努力をするという習慣を身につけさせた、家庭環境のおかげなのですよ」ということだと思います。
- 3つの文化資本
ブルデューは、文化資本を3つに分類しています。それは、知識・教養・趣味などの①「身体化された文化」、書物や絵画などの②「客体化された文化」、学歴や資格などの③「制度化された文化」です。
例を用いて順番に説明すると、
- 親がバイオリンやピアノという音楽趣味を持っていて、子供が幼い頃から音楽に親しみ、小学生になって発表会や演奏会に出演するようになれば、親から子へ音楽趣味が受け継がれた(再生産された)ことになります。
- 家に多くの本や絵画作品などがあれば、そこの家の子供は本を読む習慣を身につけたり(これによって様々な能力を手に入れることになります)、絵画作品に触れるという文化的な行為を通して芸術感覚などを育むことができます(可能性の問題で、本の所有がゼロよりも1万冊を所有している家で育つ子供の方が上記の可能性が高くなるというような意味合いです)。
- 親が東大なら子も東大、親が医者なら子も医者といった親から子へ学歴や資格(職業)が受け継がれる(再生産される)ことを示しています。
僕の場合を考えてみると、とても分かりやすいと思います。
- 良くも悪くも、親(父)の影響
さて、このブログを始めた当初は、小学生時代のお話から記事を書き始めました。特に、小中学生の頃のお話の記事を読んでくださった方々から「君はお父さんの影響を大きく受けているね」といった多くのコメントをいただきました。
まるで、僕が父を愛し過ぎて大人になれない困った息子みたいに思われたかもしれませんが、僕自身について説明する上で父の存在が見え隠れしてしまうのは仕方のない事です。なぜなら僕は、父が作った「旅を通して教育する」という揺るぎないルールが存在していた松本家という家庭環境の中で(もはや、家庭という枠を超えていましたが)、「文化的に再生産された息子」だからです。
自転車に乗ることも、旅をすることも、母親の意見を聞かずに長期旅を決定することも(母の日にはちゃんと電話しました)、すべては父から受け継がれた放浪文化(という文化資本)なのです。はじめは、それらの文化体験を強制されていたのですが、ある時から自主的に放浪文化体験を積み上げていくのです。
- 穏やかな接客
ブルデューの文化資本論を知ると、喜怒哀楽における「怒」の感情の大半は、文化資本のような考え方で許せてしまう気がします。
例えば、飲食店でのアルバイト中に、とてつもない悪態をつくお客様に絡まれてしまうと「あぁ…この方は口説こうとしている女性の前で店員に悪態をついてしまうと、好感度を下げる可能性が上昇するという事を知らないのだろうな。『デート中に店員に悪態(=ネチネチとした独善的な意見を主張すること)はやめておいた方が良い』という文化資本を、これまで生きてきた中のどこかのタイミングで受け継がなかったのだな、なぜだろう。この方の自己物語はどのように変遷してきたのだろう…」と好奇心を膨らませながら、従業員を代表して心からお詫び申し上げることができます(とても冷静になれます)。
つまり、誰かの怒りに対して反省しつつも(怒られたらしっかり反省します)、少し冷静になって対処することができるという事です。
文化資本論の本筋からは外れますが、この考え方は、他者の「怒り」によって僕の中に生まれる「怒り」の量をごくわずか(あるいは、ゼロ)にする手助けをしてくれたし(怒りは争いを際限なく再生産します)、より穏やかに「お客様からの声」を受け取る術を与えてくれたのです。
何かしなくちゃいけないと思い、たまたま専攻していた社会学に触れてみた事は正解だったと思っています。大学1年生の終り頃から、とあるボランティアに参加を始めるのですが、それもいくつかの社会学の考え方を知ったことがキッカケとなった気がします。