大学時代#5アメリカ編「踊るプロテスタント」
突然ですが、僕は「10万円の男」です。
有料動画サイトNETFLIX(ネットフリックス)に「100万円の女たち」というオリジナルドラマがあります。売れない小説家の主人公のもとへ、誰が送ったのか分からない招待状を持った5人の女たちがやってきて同居し、生活費として女たちが月100万円を支払うというストーリーです(今や、ネットでドラマや映画が見ることができます。延滞料なんて気にしなくて良いなんて便利です)。つまり、このドラマになぞらえて言うと、僕は「10万円の男」なのです。
なぜか小学校高学年の時から、家計簿をつけています(今では、スマホアプリで家計簿をつけている。電卓を片手にレシートとにらめっこしていた数年前が信じられない)。家計簿によると、大学生になってからの僕の1か月間の生活費(家賃を除く全ての支出)は平均8~10万円です。一人旅を前にすると、超節約モードになるので8万円台で抑えられるし、普通に生活しているとだいたい10万円になります。僕という人間が、10万円の生活費で生きているという事が、どの程度のもので何を意味するのかよくわからないけれど、「自分は1か月に10万円で生活しているんだ」という事実を知っていると、それはひとつの尺度(ものさし)として役に立つ気がします。
先週、久しぶりに高いお買い物をしました。小型ノートパソコン、約5万円。新宿にあるビックカメラのパソコンコーナーでウロウロしながら、5万円の価値について考えてみました。「5万円、月の生活費の半分…。5万円、インド往復の格安航空券も5万円…」。小型PCが5万円で買えるという安さがスゴいのか、インドまで5万円(片道2万5千円)で行けてしまう中国東方航空の努力がスゴいのか分からなくなってしまいましたが(その努力と引き換えに、機内食の「質」は我慢しなければならない)、とにかく、僕にとって5万円は高額であり一挙に使うには、とても思い悩んでしまう金額なのです。
最終的に、5万円を小型PCに投じる魅力がたくさんあったので購入しました。とても悩んで購入したわけですが、自分が「10万円の男」であることを理解した上で、今の自分にとっての5万円の価値をなんとなく考える事ができたのは、長年家計簿をつけて知らないうちにお金に対する「自分の尺度」を手に入れていたからなのかもしれません(今月に限って、僕は「15万円の男」です)。様々な場面において、自分の尺度で物事を考える事はとても大切なことだと思っています(一人旅やマラソン、自転車なども、自分の尺度を見つけるにはとっておきの行為だと思います)。
今日は、アメリカで体験したプロテスタントのミサについてのお話です。
*カリフォルニア・ヨセミテ国立公園。アメリカはなんでもビッグサイズです
- 日曜日のミサ
アメリカでの滞在が始まり早々に思ったことは、「意外と宗教色の強い国なのだな」ということです(あくまで、僕が滞在した地域や接した人々の文化や価値観を見た上での感想ですが)。
アメリカの歴史の変遷を考えてみると、キリスト教(特にプロテスタント)が強く根付いていることはなんとなく想像がつきますが、日本で過ごしてきた期間が長い僕にとって(日本人は、多くの人が「自分は無宗教である」と思っている)、日々の生活の中でお祈りやプロテスタンティズム的な(よくわからないけれど、ソレっぽい)文化や生活様式に則って過ごしているアメリカ人たちはとても不思議でした(無宗教の僕たちが行う「いただきます」や「ごちそうさま」はいったい何の行為なのでしょうか)。
そしてある日曜日の朝に、ホストファミリー(夫婦)にプロテスタントのミサに誘われました。日々彼らと過ごしていて「プロテスタントって何だ?」と思っていた僕には、想定外の嬉しいお誘いでした。まさに、神に感謝、アーメンハレルヤ、です。
- 宗教への尺度
僕は、アメリカのキリスト教(プロテスタント)文化や様式に、これといって拒否感を持たなかったのですが、それはキリスト教系の中高に通っていたため、宗教(キリスト教)に対する「自分の尺度」があったからだと思います。
僕は、カトリック系の中高に通っていました。とはいえ、信者というわけではなく(僕は「無宗教」です)、学校説明会で感じた雰囲気の良さや立地の良さ(家から自転車で5分。ただし、全力疾走)で入学を決めた学校が、たまたまカトリックのミッションスクールだったというわけです。
6年間、キリスト教的なモノ(定期的なミサとか学校内にあるチャペルとか)に触れて学校生活を送り、宗教に対するニュートラルな感覚を得たと思っています(「へぇ、キリスト教ってこんな感じなんだ。イスラム教はどんな感じなんだろう」といった言葉通りのニュートラルな感覚です)。この経験は海外を旅する時に、宗教という視点から人々の生活や社会を見ることができるという点で、役に立ちました。それに、信仰を持つ海外の人たちとコミュニケーションをとる上では、相手の価値観の根っこの部分を知るという点で役に立ったこともありました。
そんなわけで、長年キリスト教的なモノ(特に、カトリック)に触れた生活を送ったわけですが、同じキリスト教でもプロテスタントはよく知りません。だからこそ、プロテスタントのミサに参加するというのは、ディズニー愛好家がロサンゼルスのディズニーランドに行くのと同じくらいに、ワクワクする出来事でした。
- まるで、ライブ
コンサート会場のような真新しい教会に入ると、300人の踊るプロテスタントたちを目にしました。
僕が参加したミサは、まるでライブのようでした。開始と同時に、ステージでバンドが演奏をはじめポップテイストにした聖歌を歌い始めます(これは一般的なのでしょうか?)。会場は起立し、歌いながらその場でダンス(曲によって振付があるらしい)を始めます。それまで、カトリックのミサ(厳かで信仰が深まったが故に眠くなってしまうミサ)にしか参加したことのなかった僕は、そのギャップに唖然としました。
- 宗教を知る面白さ
たった1回だったけれど、プロテスタントのミサへの参加は、貴重な体験だったと思います。同じキリスト教でも、ミサの様式に天と地の差(互いに「天」と「天」なので、この表現は不適切かもしれません)もしくは大きな違い(こっちが適切ですね)があるという事を知れたのは、僕にとっては大きな収穫でした。
あの驚きや発見は、僕が接したホストファミリーをはじめとするアメリカ人の価値観を理解する上で、彼らの物事の判断基準や行動規範がもしかするとプロテスタンティズム(よく分かりませんが)と関係しているのかもしれないと考える新しい視点となった気がします(この視点は、モロッコやインドでは特に役立ちました)。
*チェコ・プラハ郊外の教会群での写真。石畳の街並みが好きです
僕は、ヨーロッパの街並みや建造物を見る事が好きです。あの空間を歩いていると、落ち着きます。それに、芸術には無頓着ですが、なぜか欧州の芸術作品を見ていると「なんか、美しいな」と思ってしまいます。
この感覚は、僕が生まれた時から潜在的に持っていた感覚なのでしょうか。なぜ僕がこのような感覚(欧州ダイスキ)を得たのかは、様々な要因があると思っていますが、そのひとつは中高の6年間をキリスト教系の学校で過ごした事が挙げられるのではないでしょうか。
良いとも悪いとも思わず、ただただ中立的にキリスト教的なモノに触れた6年間で、少なからずキリスト教的な価値観を取得した気がします(たぶん、僕は「善きサマリア人」のように、倒れている人がいたら手を差し伸べます。たぶん)。
キリスト教について教えてくださった学校の先生たち(学校には神父さんがいました)にも大きな感謝をしているし、その学校に通わせてくれた親にもとても感謝しています。もちろん、中高生なりの辛い時期を支えてくれた友達にも感謝をしています(感謝の気持ちを持つこともまた、キリスト教的な何かの影響かもしれません)。
にもかかわらず、僕はいつも信仰について質問されるとこう答えます。「僕は、無宗教です」。このように答えると、いつも外国人は困惑します。アメリカのホストファザーは「Oh Jesus.(なんてこった。これだから日本人は)」みたいな表情になりましたし、ドイツ・ミュンヘンの青年は「Why?(ごめん、意味が分からん)」といって本当に困っていました。海外の人たちと接すると、僕にとって宗教や信仰って何だろうといつも考えさせられます(まだ、答えはみつけていません)。
アメリカでのミサ体験は、アメリカ滞在におけるささやかな1コマだったかもしれませんが、「宗教って何だろう?」という素朴な疑問について考え始める大きなキッカケだったと思っています。