中高時代2

 昔、とても怯えていたことがあります。それは、中学時代に部活を休む事です(野球部でした)。今では、とても不思議に思いますが、当時は1日でも部活を休むことに対して恐れのようなものを抱いていた記憶があります。

 顧問の先生はとても理解のある方で、仮に何らかの事情で休まなければいけなくなったとしても、それを咎めず(ごく当たり前ですが)快く承諾してくれました。しかし、1日でも練習を休むと、試合に出る機会がなくなってしまうのではないか、次に練習に参加した時に上手くプレーができないのではないかなどと思ってしまい、毎日練習に参加していました。

 部活から学んだことは多々あります。むしろ、中学時代に学んだ事といえば部活からの経験くらいです(部活に最も多くの時間をかけた気がします)。しかし、当時を振り返って考えてみると、時には部活を休んで、もっと色んな事に取り組めばよかったなと思います。

 そして、一番の反省点は、部活以外の何かに取り組まなかった点ではなく、部活以外の何かを選択するという発想力が無かった点だと思っています。まさに、部活に参加するという当たり前の事象を疑う事ができませんでした。

 他にも昔の反省点はたくさんありますが、悔やんでも仕方がないので、中学校や高校などで授業をする時に「なぜ毎日部活に足を運んでいるのか」や「宿題を提出しなかった時、なぜこっぴどく怒られなければいけないのか」(宿題はしっかり提出しよう!)などについて中高生に問いかけるようにしています(中には、とても険しい表情をされる先生もいます)。  

 先生たちに反逆せよ、と中高生を煽っているのではなく、普段の生活に対して疑問をぶつけてみる事が、何かの役に立つのではないかと思っているのです。

 

 

 今日は、中高時代についてのお話です。

 

 

  • 日常の中でジタバタしていました

 よく聞かれる事があります。中高時代も旅をしていたのか、という質問です。これも今では反省している点ではありますが、中高時代は外の社会へあまり出て行こうとせずに過ごしていました(基本的に、旅はしませんでした。いくつかの例外はあります)。

 

  • 部活期と受験期

 中高時代を、とても大きな枠組みでバッサリとふたつに分けてしまうのであれば、部活期(部活に囚われていた時期)と受験期(受験に囚われていた時期)に分ける事ができると思っています。中学時代が部活期で、高校時代が受験期です。

 

 中学時代は部活に多くの時間と全ての体力を捧げました(そのわりには、飛躍的な野球スキルは身に付きませんでした)。集団行動の基礎を学べたり、今でも繋がりのある大切な友達を作ることができました。一方で、前述の通り、部活という枠の中に閉じこもり、外の社会へ一歩踏み出していくような行動力や好奇心は小学生の頃に比べて、衰えていってしまったように思えます。

 事あるごとに、部活を理由にして、参加すると有意義であろうイベントや普段とは異なるコミュニティとの交流会などへの出席を拒んでいました(時々、そういったイベント等への参加を親に勧められましたが、頑として行かなかった記憶があります)。

 

 そして、中学校3年生の夏に部活を引退し、高校1年生の冬ごろまでフラフラしました(言葉の通り、フラフラしました)。

 

 高校1年生の冬頃から、受験期に入ります。つまり、モノの価値を受験に関係あるかないかで判断するような、好奇心のカケラもない高校生になっていきました。帰宅部だったので、この頃から学校が終わると予備校の自習室のこもるようになっていきました(今、思い出しましたが、こもった時間のわりには、勉強ができるようにならなかったので、とても悲しい気持ちになります)。

 この時期もまた、事あるごとに受験勉強を理由にして、多くの有意義な機会への参加を拒み続けていました。

 

  • 全部がタメになる

 書いていて思いましたが、中高時代は好奇心が失われていたように思います。特に、受験期は「それって受験に関係あるの?」とか生意気な事を常に思っていました。

 今となって、受験科目とは関係のなかった数学や物理、化学などの理系科目を勉強する意味を痛感しています。それに、昨日の記事でも書いた通り、本を読むことだってタメになるし、何かのイベントに参加して普段とは違ったコミュニティの人とおしゃべりをする事だってタメになったでしょう(今の僕は、そう思います)。

 

 

 前々回、中高時代の記事を書いたときに、当時の記憶を引っ張り出しました。その時、大学生になって好奇心が爆発した(自分では好奇心旺盛な方だと思っていますが、どうでしょう?)のは、中高時代に様々な事の内側に引きこもり過ぎた生活をしていた事が原因なのではないかと、ふと思いました。つまり、良くも悪くも、中高時代に無意識に「何かに囚われて過ごしている感」(当時は気づいていませんでしたが)を感じていた体験が、結果として自ら行動していくような主体性(カッコよく言うと)みたいなものを生む要因になったのではないかと思います。

 

 そのような結果を生んだきっかけが思い浮かびました。それは、大学1年生の時の、いくつかの体験にあるように思います。