【イスラエル旅】旅行前に知っておきたい、ユダヤ教の民族衣装「キッパ」とは(中東中米旅#3)
エルサレムの旧市街を観光していると、いくつかの施設で「小さな帽子」を頭部にのせなければいけない場面がありました。
これは「キッパ」とよばれる、ユダヤ教の民族衣装です。「嘆きの壁」をはじめとするユダヤ教の施設(神聖な場所)では、異教徒(旅行者)であってもこれを身に付けることが義務とされています。購入する必要はなく、施設の入口に積まれているキッパ を無料で借りることができます。現地の人によると、キッパでなくても何かをかぶっていれば良いので、ニット帽やキャップでも代替可能とのこと。
また、ユダヤ教の施設は男性と女性で、お祈りをする場所が分かれているので、複数名で観光に行く場合は気をつけておきましょう。
【イスラエル旅】テルアビブの東地中海から感じた「距離感」(中東中米旅#2)
旅先では、できるだけ疲れたくない。ぼくは、このたいへんワガママな希望をもって、いつも旅に出かけている。今のところその希望を叶える方法は、旅先でも「いつもどおり過ごす」ということだと思っている。イスラエル2日目の朝も、いつものようにランニングにでかけた(ぼくは毎朝走ることを日課としている)。
リゾート地の雰囲気で、道も綺麗に整備されたビーチ沿いには、日の出前にもかかわらず犬の散歩やジョギングをする人がいた。それに、地元のおっちゃんたちが忙しそうに釣りをしていた(この光景は日本と変わらない)。朝日を横目に走っていると、ふと初歩的な疑問がうかんだ。
「この海って、何だっけ?」
ホステルに戻ってすぐにGoogle Mapsを開くと、さっきまで自分は「東地中海沿い」を走っていたことが分かった。言われてみれば当たり前というか「まぁそうだよね」くらいの発見だったのだけど、同時にようやく自分と中東との距離感をつかめた気がした。
ぼくの中東という地域のイメージは、小学校低学年の頃(2000年代はじめ)によく目にしていたNHKニュースの中のものだった。そこでは、真面目そうなオジサンが「現地からは以上です」と、現地の政治情勢を何かが差し迫っているかのような表情で伝えていた。ぼくの中東に対する距離感というのは、そこから形作られたことによって、けして身近なものではなくむしろ果てしなく遠いものとなっていた。
ところが、テルアビブは地中海に面しているのである。つまりその先には、イタリアやスペイン、モロッコといったぼくにとって「身近」な国々が並んでいる。それらの国から眺めた海が、このテルアビブにも通じているのである。これらの事実を実感したことによって、やっと地図上の中東とぼくのイメージとしての中東が重なった。この果てしなく遠いと思われがちな地域は、日本と欧州の間、その名の通りMiddle Eastの場所にしっかりとあるらしい。
2018年2月10日 テルアビブ Abraham Hostel
【イスラエル旅】テルアビブのベン・グリオン国際空港から入国した初日(中東中米旅#1)
アジア人が、めずらしいのだろうか。テルアビブに到着し、ベン・グリオン国際空港の入国審査に並んでいると、ユダヤ教の民族衣装である小さな帽子「キッパ」を頭に乗せた人たちにチラチラと見られた(とくに子どもたちにはジロジロと見られた)。
この「見られる」という感覚は、久しぶりのものだった(2011年のスペイン自転車旅以来だと思う)。ぼくの中で「見られない」ことが当たり前になっていたのはここ数年の間、ぼくがドイツや台湾、中国などたくさんのアジア人が訪れている場所にしか行っていないからでもあり、世界中のコミュニティにアジア人(とりわけ中国人)が進出しているからでもあると思う。だからこそ、自分が「異質」であることを気づかされる眼差しを受けるのは新鮮な感覚だった。
「そうか。ぼくはアジア人がめずらしく思われる国に来たのか」
向けられた視線によって、自分がアジア人にとっては王道とは言えない観光地にやってきたことを気づかされた。
入国審査を終えタクシーに乗って、中心部にあるホステルに向かった。木曜日のテルアビブの街中は、イスラエルの安息日前夜ということもあり、多くの人で賑わっていた。海に面したリゾートエリアは綺麗に整備されていて、ハイソサエティな感じがしたけれど、ときおり鳴り響くクラクションと隙あらば先に進もうとする荒い運転が、ぼくに安心を与えてくれた。
2017年2月9日 テルアビブ Abraham Hostel
【イスラエル・キューバ旅】チェ・ゲバラのTシャツと聖書でイメージした、イスラエルとキューバという国(中東中米旅)
物心がついたころには、イスラエルとキューバが「身近」にあった気がする。
ぼくは、中学1年生のころにはじめて聖書を手にした。それはとても外発的な理由で、たんにカトリック系の私立中学校に入学したからである。結局、その聖書をほとんど開くことなく中高6年間を過ごしたけれど(むしろ、大学生になってから読みはじめた)、学校の正面玄関にドンボスコの銅像があるような環境に身を置いたことによって、自発的ではないにせよ普段から「宗教」を感じながら生活することになった。
そして、エコロジストである父は、ぼくが月に何度か行われる朝礼がわりのミサに参加することを余儀なくされた時期に、キューバの革命家チェ・ゲバラの肖像が大きくプリントされた真っ赤なTシャツを好んで着ていた(父は、1990年代後半にキューバを訪問していたのでその当時の写真をよく見せてくれた)。
キリスト教を信仰する学校に身を置き、チェ・ゲバラを信仰する父(正確には、信仰していたかどうかは分からない)がいたという状況は、「イスラエル」や「キューバ」という言葉を常にぼくの頭の片隅に忍ばせていたのである。そして、いつしかその言葉は徐々に大きくなり「いつか行ってみたいな」という思いへと変化していた。
ついに、出発の時がきた。
⚫︎いま見ておくべき国へ
これから、イスラエル・メキシコ・キューバの順に1ヶ月の旅に出る。大学生最後の長期休暇だけれど、行き先は迷うことなく決まった。個人的な思いから、「いま見ておくべき国」に行くことにした。
⚫︎これまでのキューバが変わるらしい
『1959年のキューバ革命以来続いた対立の歴史において、大きな転換点になると期待されている』(2016年3月21日BBC)
2016年3月20日。オバマ米大統領(当時)は、現職の米大統領としては88年ぶりにキューバを訪問した。ぼくが目にした多くのメディアでは、『対立していた米国とキューバの関係性が転換点をむかえている』ということを論じていた。それらを読んで「へぇ~仲良しになるんだ~」となんとなく思っていたのだけれど、同時に良くも悪くもアメリカ資本がキューバへ流入するので「これまでの牧歌的なキューバは今しか見ることができない!!」といった議論も起こっていた(当時、そこそこ多くの人が急いで航空券を購入しキューバへ行っていた)。
当時、すぐさまキューバへ行けるほどの行動力も貯金も無かった(借りてでも行くべきだったのかもしれない)ので、結果的にはオバマ訪問から2年後に行くことになった。でも、その歴史的な流れがあったからこそ「いつか行きたい」から「いま行かなきゃ」という考えに変化したのだと思う。
奇しくも、イスラエルに「いま行かなきゃ」と考えるようになった理由も米大統領のニュースが関係している。
『(トランプ米大統領は)エルサレムではユダヤ教の聖地「嘆きの壁」を現職の米大統領として初めて訪れ、オバマ前政権で冷え込んだイスラエルとの関係改善を強調~』(2017年5月23日朝日新聞)
2017年5月22日。トランプ米大統領は、初外遊でイスラエルを訪問した。このニュースもまた、多くのメディアで取り上げられていた。
このニュースを知ったときに、ぼくの中でキューバとイスラエルへ行くことが決まった気がする。それは、政治的な関心というよりも、アメリカとの関係性が「特殊な」ふたつの国々を同時に訪問すると、どんな発見ができるのだろうといった、好奇心のようなものだと思う。
ひとつの旅の中で、大きな枠組みでは共通するけれど根本的には違いのあるものの両方を見ることは、それまで知らなかった新しい感情が生まれることに繋がる。ここ数年でアメリカの大統領が訪問しているイスラエルとキューバに行くと、どんな「感情」が生まれるのだろうか。10年以上も前から、「身近」に感じていた国に行ける日がやってきた。
2018年2月8日 成田空港第1ターミナル
【台湾一周自転車旅】 「台湾に進学した女の子がいるよ」。宮崎に住む母の紹介で会ってみたら、「ふつう」の20歳だった/日本人留学生インタビュー×台北・銘傳大学(Day11・特別編)
「すみません~、遅れました~」
夜市がにぎわい始めた台北の繁華街で、女子大生を待っていた。彼女とは、初対面。「高校卒業後、台湾へ進学」。このフレーズが、僕の中での留学生像を形作っていた。どんなアグレッシブでストイックな子が来るのだろうと身を構えていたら、こちらが拍子抜けをしてしまうほどに穏やかな子がやってきた。少し戸惑いながらも(相手は、久しぶりの自転車旅で目をキラキラさせていた僕に、もっと戸惑っていたかもしれない)、台湾でも日本と変わらぬ心の持ちようで日常を過ごしているような「ふつう」の女子大生について行った。
●日本人留学生インタビュー×銘傳大学
今回の旅では、台北に4日間滞在した。そして、観光の案内役をしてくれたのが、佐々木みどりさん。市内にある、銘傳大学に通う大学2年生だ。同じ宮崎出身で、互いの母親が知り合いということで繋がった彼女に、留学生活についてお話を聞いた。
松本:3日間の台北観光では、お世話になりました!改めて、お話を聞かせてください。
佐々木:はい!よろしくお願いします。
●台湾を選んだ理由は「住みたい!」
3日間たくさん話したけど、改めて順を追って聞かせてください。しつこくて、すみません(笑)。まずは、台湾留学を決めたキッカケを教えてください。
大丈夫ですよ。たくさん聞いてくださいね(笑)
きっかけ、ですね。私が留学に興味を持ち始めたのは、小学生のころです。父が学生時代にイギリス留学を経験していて、その話をよく聞いていました。なので、昔から「大きくなったら、留学するんだろうな~」と漠然と思っていました。その時は、英語圏のつもりでしたが(笑)
佐々木さんは、高校卒業後すぐに台湾へ進学したわけだけれど、どうして台湾だったの?
「住みたい!」と思ったからです(笑)高校2年生のとき、所属していた吹奏楽部の演奏会で、初めて台湾を訪れました。台湾の文化や人々に触れて、いつか住んでみたいと思うようになりました。それが、「台湾」が留学先の候補になったキッカケですね。
当時は中国語がさっぱりわからなかったので、ボディランゲージや通訳の人を通して、現地の人とコミュニケーションをとっていました。その体験から、もし中国語を習得して台湾の人たちとお話ができたら、より直接的で深いコミュニケーションがとれて楽しいだろうと思うようになり、中国語をマスターしたいという気持ちが芽生えました。
それで、台湾留学を決めたのですか?
いえ、違います。決め手は、母の一言でした。
●背中を押された、母の一言
高校2年生の時期って、大学のオープンキャンパスに行ったりして、自分の志望校を決めますよね?
はい。僕も関西の大学を中心に、いくつか行きました。結局、1度も行ったことのない大学に進学しましたが(笑)
私は、実家が宮崎ということもあり、福岡の大学を中心にオープンキャンパスへ足を運びました。でも、私にとってはどこもしっくりこなかったんです。血が騒ぐような大学が、国内ではみつかりませんでした。志望校が決まらず、モヤモヤしている。だけど、台湾にはいつか住みたいと何度も言っている。そんな私を見て、母が言ったんです。
「じゃあ、行けば」って。
衝撃的ですね。
その通り、衝撃的でした。私にとっては、進学先が決まらないことと台湾に住みたいということは、結びついていませんでした。でも、母は「台湾に住みたいなら、向こうの大学に進学すれば良いじゃん」って。その一言で、海外留学への扉が開きました。日本の大学に進学してから留学するのではなく、初めから留学するという選択肢もあるんだというように。突然、高校卒業後の視野が広がった気がしました。そして、その一言をうけて「台湾へ行くんだ」と決意しました。
高校卒業後は、例の予備校に通ったんですか?
そうです。例の予備校です(笑)半年間の予備校生活を経て、銘傳大学ラジオテレビ学科に進学しました。
*「例の予備校」とは、茨城県にある台湾留学サポートセンターのこと。ここでの生活については、高雄・福井くんや嘉義・諸喜田さんのインタビューをご覧ください。
●台湾での大学生活と今後の進路
台湾で始まった大学生活は、いかがですか?
化粧、はじめました!(笑)高校時代は校則で禁止されていたので、お勉強中です。
化粧ですか、まさかそんなポップな返事が来るとは思いませんでした(笑)。佐々木さんって、留学生のイメージを壊すほどに「ふつう」の女子大生というところが良いですよね。僕の友達にも留学経験者が多いのですが、彼女たちはとても強い(笑)。
それ、よく言われるんです(笑)
「留学だ!決戦だ!!」みたいな海外留学への強い思いと気合いがあり、彼女たちと話していると、日々を生き抜く力を与えてもらっている気になります。そんなイメージができあがってるからこそ、佐々木さんは新鮮なタイプです。日本での生活と台湾での生活の間に、境界線を引くことなく、日本の延長線上に台湾での日常がある感じがします。
私としては、留学だからといって、あまり気負う必要はないのかなと思っています。それに、日本や台湾とか関係なく、私にとっては初めての大学生活なので、肩に力を入れることなく楽しもうと思っているんです。
そんな楽しい大学生活も、半分が過ぎようとしています。残り2年間でやっておきたいことはありますか?
短期でも良いので、英語圏に留学したいと思っています。1年生のころは、中国語での授業はほとんど聞き取れなかったし、会話も不自由な時がありました。でも今では、ほとんど聞き取れるようになりました。もっと勉強していく必要はありますが、次のステップとして英語学習に力を入れていきたいなと思っています。
所属は、「テレビラジオ学科」。どんな授業を、受けているのですか?
私の専門は「映像制作」なので、授業では制作のノウハウを学んだり、実際に制作したりしています。この前制作したミュージックビデオでは、主演を任されました。最初はとても不安だったのですが、「みんなでひとつの作品をつくりだした」という完成したときの達成感は、うれしかったです。
映像制作って、クリエイティブ性を求められるイメージがあるのですが、その学科に入って新しく始めたことなどはありますか?
これまで以上に、「海外の人がみる日本」を意識するようになりました。
それは、面白い視点ですね。海外の人からみた日本なんて、考えたこともありませんでした。具体的には、どんなことをしているのですか?
今年の夏、日本人の友達と京都へ行きました。その時に、台湾人は日本のどんなところに興味があるのだろうと疑問に思ったので、事前に「台湾人が京都へ行ったらやりたそうなこと」を書き出して、実際にやってみました。そして、インスタに写真を投稿して、台湾人の友達の反応を確かめるみたいな。私は、あえて台湾人として日本をみることによって、日本をどのように発信していけば、海外の人たちが興味を持ってくれるのだろうという視点を持つようにしています。
最後に、これから、海外への留学を考えている中高生に一言お願いします。
気負わないでください(笑)
留学は、「大変」「キツい」というイメージがあると思います。でも、ただただ「楽しい」側面もあります。まずはやりたいことを見つけて、それを実現するにはどの場所がベストなのかを考えてみることが大切だと思います。
プロフィール
佐々木みどり。宮崎出身。高校卒業後、約半年間の中国語予備校生活を経て、銘傳大学ラジオテレビ学科に進学。休日は、友人と写真を撮りに出かけたり、たまに遠出をして、台北やそれ以外の地域に足を運ぶ。ドラマや映画鑑賞が好きで、趣味は、日本のエンタメを追いかけること。卒業後は、台湾のメディアで経験を積んでから、日本を拠点にアジアで仕事をしたいと考えている。
【台湾一周自転車旅】沖縄から、台湾へ。「日本ではできない経験」を求めて、台湾留学を始めた女子学生/日本人留学生インタビュー×国立嘉義大学 (Day10・特別編)
【プロフィール】
【台湾一周自転車旅】台北から始まった「環島」。台中から台北まで、最後の180キロメートル(Day9)
台北の街は、大粒の雨さえも夜景のアクセントとして取り込み、大きくきらめいていた。自転車で一周した台湾島全土を束ねる最大の都市に、僕はもどってきた。
●小雨の台中
台湾一周「環島(ファンダオ)」の最終日は、小雨だった。これまで天候に恵まれて、快晴の空のもとを走ってきた。「最終日くらいは、雨でも良いか」と自分に言い聞かせながら、真っ暗な午前5時の台中の街を走り去った。
今日の予定は、台中=台北間の180km。距離こそ長くはないけれど、前半の120kmは、新竹の「風の強い地域」といわれている海岸沿いを走るため、大幅なタイムロスを見込んでいた。なんとか、夕暮れ前に到着したい。そんな思いで、新竹を目指した。台中郊外まで走ると、潮の香りをともなった風が、少しだけ吹いてきた。
●新竹までの120キロメートル
まったく、進まない。出発から、10kmほど走った辺りで、心地よい海風は「そう簡単に、台北までは行かせないよ」と言わんばかりに強い向かい風へと一変した。下り坂でも進まないといった事態に「(笑)」と思いながら、気楽に進んでいった。
車とバイクでごったがえし、日系の百貨店もある新竹の中心部に到着したのは、午後3時。ここまで、120km。2時間前には到着するはずだった新竹駅前を通り過ぎ、台北の手前にある都市・桃園を目指した。強い風は、まだ続いていた。
●夕暮れの桃園
この旅最後の山道を越えたとき、「桃園市」の標識が目に入ってきた。タイムロスをしながらも、着実に前に進んでいるのだと感じた。「ここまできたぞ、もう少し!」と、自分を鼓舞しながら進んでいく。桃園の中心部に到着すると同時に、今回の旅ではあまり使わなかったライトを点灯させた。
台北までは、残り55km。なかなかシブい距離だけれど、ここまできたら一気に台北へ行きたかった。台湾を走っているあいだ、「最悪、電車に乗れば台北に到着するよな…」と、保険の選択肢を頭の片隅で考えている自分を脱ぎ捨てたかった。
自転車旅を始めた小学生のころは、「自転車をこがなきゃ目的地へはたどり着けない。必ずこぎきるぞ」と思っていた。それなのに、22歳の大人になった今、「諦めても、目的地へは行ける」という考えを持ちながら自転車に乗っている。そんな自分に気づいたとき、自分の思考というものが進化ではなく、明らかに退化していると感じた。
ここで諦めるか、台北まで走るか。選択によっては、「台湾自転車旅2017」の価値に天と地の差が生まれるのではないかと思った。「絶対に、台北までいこう」。1個20円の大きな餃子を、最後のエネルギー源として食べた。真っ暗になった桃園の街は、帰宅ラッシュの渋滞で混雑していた。そして、小降りだった雨は、大粒の土砂降りに変わった。
●きらめく台北
夜のネオンに照らされた、桃園の市街地。大都市・台北が近づいていることを予感させる賑やかなこの街からの40kmは、すべて下り坂だった。それに、幸か不幸か、大雨の中の走行だったため、安全に走行することに緊張感が向いていて、限界が近づいていたひざの痛みが全く気にならずに走ることができた。最後に、山に沿った真っ暗な自転車道路をかけおりていくと、視界一面にきらめく台北の街が見えてきた。
「もどって、きた」。一気にこみあげてきた高揚感が、自転車の速度をあげた。ひざの痛みも、雨に打たれた体の寒さも、一瞬で忘れた。郊外と中心部をへだてる淡水河に架かる橋を、全速力で越えて台北駅に到着した。達成感にひたりながら、自転車をおりてヘルメットをおいた。深呼吸しながら空に向かって大きく伸びをすると、橋を越えるときまで降っていた雨が、いつの間にかやんでいることに初めて気がついた。
11/3 台中=台北 180km 10h30m 総走行距離895km