Running and Thinking 松本唯人ブログ

12歳から一人旅を始め、日本全国・海外20数カ国を旅した松本唯人(23)のブログ。台湾自転車旅やイスラエル、キューバ旅など、旅先での情報や日本人留学生のインタビュー記事を不定期で更新しています。近況はinstagram(@yuito.mtmt)で更新中。普段は株式会社TABI LABOでライターとして働いています。

僕のキーワード その4「ドイツの街づくり政策」

 

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*2015年夏・東京~宮崎1500km自転車旅 山口県錦帯橋(きんたいきょう)

 

 

 自転車で放浪していると、ふたつのタイプの「泉ピン子的な女性」に遭遇します。ひとつは、奇怪の眼差しを向けあからさまに僕を避けて先を急ごうとするタイプ。もうひとつは、眉間にしわを寄せつつも「あら、お兄ちゃん、どこから来たの!?」と好奇心に耐え切れず声をかけちゃうタイプだ。幸い、圧倒的に後者のような優しい「泉ピン子的な女性」に出会う機会が多かった気がします(彼女たちは決まって、手作りのお守りか飴をくれる)。

 

 旅をしていると、日常生活よりも多くの(場合によっては、かなり多くの)人たちと出会う機会を得る。小学生時代は考えられなかったけれど、今ではSNSの普及で出会った人たちと「繋がる」ことができ(改めて言う必要もないが)、色んなタイミングが合えば、いつかどこかで再会する機会を得ることもできる(一度再会すれば「一生もの」の友達になれる、気がする)。

 つまり、人との出会いを通して何かを学んだ気がするのだ。では、何を学んだのでしょうか。それは、僕(たち)にとって大切な事は「人とのコミュニケーション」だということです。

 小学生の頃から、せっせと旅をして、様々な人たちとコミュニケーションをとったことによって、無意識のうちに「人とお話をする楽しさや大切さ」を感じていたように思います。  

僕に声をかけてくれた日本全国の「泉ピン子的な女性」や東北弁と宮崎弁で会話が嚙み合わなかった山形県のおばあちゃん、岐阜県の小学校で昼休みに僕を強引に蹴り野球に誘ってくれた女の子など、いつしか色んな人とのコミュニケーションは、ゲームキューブPSPでゲームをするよりも、楽しく好奇心が湧くものになっていました(我が家はゲーム禁止でしたが)。

 特に、僕の地元・宮崎市を始め日本の地方都市の、閑散とした中心商店街を見て、「たぶん、この状況(中心商店街という市民のコミュニケーションの場の役割が低下している状況)って悲しい現実なんだろうな」と、漠然と感じていたのではないかと思います。

 そのような漠然と感じていた思いが、具体的に「どうやら日本の地方都市って今のままではいけないみたいだ」といった思いに変化した出来事があります。

 

 今日は、初めてドイツを訪れたお話です。 

 

 

  • ドイツってどんな国?

 小学校6年生の秋頃から卒業の時期にかけて、学校の図書室でドイツに関する本をひたすら漁っていた記憶があります(図書室に行くなんて珍しい出来事だったので鮮明に覚えている)。卒業後、中学の入学式までの約2週間を使って、ドイツ(とフランス)へ行く予定があった事がきっかけです。

 それまで、ほとんど海外へ行った経験はなく「ドイツって何があるのだろう」と純粋な疑問を抱きました。総合学習の授業で、「興味や関心がある事を調べてみよう」という課題があった事もドイツについて調べる良い機会となりました(PCルームでネットも活用しましたが、当時は頻繁に“フリーズ”して作業が中断されたのを覚えています)。

 

 ドイツに飛びましょう。ドイツで、最も印象深かった都市があります。それは、南部に位置するフライブルクという都市です。

 フライブルクは、名の知れた環境先進都市で、とても簡単に言うと『路面電車や自転車を活用した車のない「持続可能で魅力的な」街づくり政策』を行っている地方都市です。

 つまり、街中に車はなく(中心部の直径約700mの範囲では車の立ち入りが禁止されている。荷下ろしや緊急車両など許可された車は通行可能)、市内には自転車道路と路面電車の公共交通網が広がっているため、子供からお年寄りまでが便利に移動でき中心商店街に人が多く集まるような街づくりがされています(詳しくは、僕のような素人の解説ではなく、専門家の方の本をお読みください)。

 

 「中心商店街に人がいる!日本では見た事ない!」

 

 とても大げさな感想かもしれませんが、平日の昼間にも関わらず、大勢の人(言葉通りの大勢の人々)が中心商店街に溢れている風景を見て、「宮崎(日本の地方都市)も、こんなに楽しい街だったらいいなぁ」と率直に思いました。

 フライブルクの街並みを見て、シャッター通りが拡大し閑散としている街よりも、多くの人で溢れ活気のある街に住みたいと思うようになりました。

 

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フライブルクの中心商店街(平日の昼間の様子)

 

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*村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』2017 学芸出版社

 

  • モデルケースを知る

 フライブルクを訪れるまでは、「日本の地方都市の現状ってなんかダメなんじゃない?」と漠然と思っていましたが、改善策は何なのか、何がダメなのかといった具体的な事はいまいち分かりませんでした。

 ですが、フライブルクの街並みを見て地方の街づくり政策のモデルケース(もちろん、容易にマネできるわけではないし、マネすれば良いという訳でもありません)を知る事ができました(1950年代までは、フライブルクも車社会で中心商店街に人が集まらないという、いわゆる「地方都市の問題」を抱えており、それらを克服したという点で、モデルケースという部分だけでなく、なぜ成し遂げる事ができたのかというプロセスも学ぶことができると思います)。

 

  • 街づくりへの関心をどのように生かすか

 初めてフライブルクを訪れた事を境に、僕の関心は「街づくり政策」を軸として派生していくようになりました。これまで、4度フライブルクへ行きましたが、何度訪れても「また行きたい」と思うくらいに、この街に魅了されています。

 そこで、今後の課題が浮かび上がってきました(書きながら、ふと思いました)。「街づくり政策」という関心を、今後どのように(どのような分野で)生かしていくかという点です。現時点では、街づくり政策や公共交通政策等に特化した学部学科に通っているわけではありません。よって、現実的に考えてその道に精通した「専門家」になるという可能性は極めて低いと考えられます。

 では、12歳の頃から抱いている関心をどのように生かせばいいのでしょうか。いくつか思う事があります。

 

 

「取材を行い、記事として広める」(専門家と市民を繋ぎ、議論の場を作る役割。記者のような仕事)

 

「シェアリングエコノミー分野でのバイクシェアやカーシェア、自転車交通推進・普及などといった事業に携わる」(日本で広くは普及していないが、TimesやDOCOMOバイクシェアなどが事業を行っている)

 

 

 まだまだ熟考する余地がたくさんある考えですが、今のところ「街づくり政策」という関心を生かすのであれば、上記のような関わり方があるのではないかと思っています(現段階では、そう思っています)。

 

 

 今日で、5回目の更新となりました。これまで、記事を読んでくださった何人かの方々からアドバイスをいただきました。混迷を極めている就活生にとっては、とても勉強になります。ありがとうございます。

 先はまだまだ長そうですが、書きながら自分の考えている事を整理していきたいと思います。よろしくお願いします。

 

 

僕のキーワード その3「エコ息子」

 

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*いつも携帯しているマイ箸。入れ物は笛にもなる(演奏はスキル的な問題でできない)。

 

 

 僕には、あだ名がない。全くなかったかと言えば嘘になるけれど、これといって定着したあだ名はない。呼ばれる時は決まって、「松本君」「ゆいと」「ゆいちゃん」(…あ、これがあだ名なのかもしれない)と呼ばれる。

 あだ名で呼ばれている人を見かけると「どんなタイプ(人間性)の人が、あだ名で呼ばれるのだろう」と素朴な疑問として真剣に考えてきた(もっと他の事を真剣に考えるべきだと思う)。

 イマドキの「社員と語り合う系」の就活イベントでは、決まって白紙の名札が渡される。「フルネームとニックネーム(あだ名)を記入してください」という言葉も添えられる。先日、リクルートという会社の就活イベントに参加した。学生3人と社員1人がひとつの班になり、それぞれの未来について話すイベントだった。そこでも、みんなあだ名を持っていた。「ヨシコ―」「エイミー」…。久しぶりに「あだ名問題」について、真剣に考えた。

 

 先週、小学校時代の友達(4人)に会った。彼らと話していると、「あだ名問題」の行方に大きな影響を及ぼす事実が発覚した。

 僕にもあだ名があったことを思い出したのだ。正確に言うと、「小学時代」「中学時代」「高校時代」…と、一貫して定着したわけではないが、それぞれの時代でふと友達から言われたことのある呼び名があった。

 

「エコ息子」

 

 これまで、あだ名なのか遠回しの嫌味なのか分からない、このあだ名で呼ばれた事が何度もあった。なぜだろう。友達はこう言っていた。

 

「親父がエコロジストだから」(事の発端だと思う)

「お弁当が玄米と煮干しだったから」(友達にとって、玄米を食べていたインパクトはかなり強かったらしい。僕のお弁当のことについて、僕より鮮明に覚えていた)

「お店で、レジ袋をいつも断っていたから」

「マイ箸を持ち歩いているから」

 

 

 久しぶりに会った友達がこんな事を言っていたので、自分の「エコ息子歴」について考えていると、小学時代までは「親父が~」「お弁当の内容が~」のように自分の選択ではないエコ活動による「受身的なエコ息子」だったけれど、中学時代以降は「レジ袋を~」「マイ箸を~」といった自らエコ活動を志す「主体的なエコ息子」へと変化していったと思う(正しくは、小学時代に「エコ」を受けすぎて、無意識のうちに「エコ的な行動や思考」が身についてしまったという感じだ)。エコ息子という枠組みの中にも、「抑圧型」と「解き放つ型」があるらしい。

 僕は、中学から私立の学校へ通ったため、小学校の友達の僕に対する記憶は、ほとんどが約10年前の「松本唯人」でストップしていて更新されていない。そんな彼らと話していると、昔の自分について客観的に振り返ることができたと思う。エコ息子を忘れずにいてくれた彼らの優しさに、「ありがとう」と感謝したい。

 

 

 今日は、僕のキーワードのひとつである「社会問題」についてお話します。

 

 

  • ここでもやはり、父の影響

 僕の「社会問題」への関心が生まれ始めたのは、小学生の頃だった。賢い小学生だった…わけではない(残念ながら)。自分が置かれた環境的に、意識せざるを得ない状況だったのだと思う。では、具体的なきっかけは何か。それは、父が環境問題に関わる仕事をしていて、その講演会の手伝いを小学校3年生の時から始めたからである(そう思っている)。

 つまり、父と自転車で日本全国を旅しながら、環境問題の講演会の手伝いをするという状況に置かれた事が、「環境問題」という、みんなで考えて解決していかないといけないらしい問題に接する機会となり(父のセリフを覚えるほどに、毎日講演会を聞いていた)、結果的に社会問題という事柄に目を向ける要因になったのだと思う。

 

 

  • 「抑圧型」から「解き放つ型」へ

 小学生時代は、基本的に「抑圧型」としての環境問題への関心だった。そもそも、父の仕事の手伝いも圧倒的な上(父)からの命令(大声では言えないが)だったし、90分(時に120分)の講演会でずっと座って、合図が送られるたびにスライドのボタンを押すという長丁場のお手伝いは、10歳の野球少年にとって、全ての欲を抑え我慢を追い求める修行としか思えなかった。

 そんな「抑圧型」から、自ら環境問題(社会問題)に関心を向ける「解き放つ型」へと変化した(進化した?)のは、小学校6年生も終わりに近づいた時期だったと思う。

 

 

「唯人、ドイツへ行くぞ」

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*当時はドイツと言えば、サッカーかソーセージくらいしかイメージできなかった。ドイツ・フライブルクにて撮影(2011) 

 

 

 お察しの通り、父の一言だ。いつもなら、暗い気持ちになり、大淀川(宮崎市に流れる一級河川)に向かって叫びたくなる所だが、どういうわけか今回は違った。

 「ドイツ」。いつもとは違った響きだった。能登半島・輪島、北海道・長万部、福岡・飯塚…じゃなくて、「ドイツ」。なんか、イメージが湧かない。頭をかしげながら、小学校の図書室へ足を運んだ。

 

 

僕のキーワード その2「旅」の始まり

 

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*今朝のランニング風景

 

 運命的な出会いは、何度訪れるのでしょうか。直感的にビビっとくる相手と出会う事ができたら、毎日がキラキラと輝き始めるのかもしれません。

 「大学時代、運命的な出会いはありましたか?」。こんな気障(きざ)な質問をする面接官がいるのか分からないけれど、もし聞かれたら答えは準備できています。

 

社会学と出会いました!!」

 

 僕は、大学で社会学を専攻している。もちろん、大学院で研究を志すほどに精通しているわけではないけれど、高校時代まで知らなかった社会学に触れた事は、物事の考え方が多面的になった大きなきっかけになったと思う(高校時代までは、乏しすぎるほどに一方向的な考え方しかできなかった)。

 社会学系を専攻している学生が最も恐れる質問がある。「社会学って何?」。コレだ。教授に質問しても、「うーん、一言では言えませんねぇ」と返ってくるくらいだから、学生が社会学の説明に困るのも仕方ないのかもしれない。

 ピーター・バーガーという、アメリカの社会学者が、社会学的好奇心の在り方についてこう言っています。

 

 

社会学者とは、アカデミックな肩書がなければ、ゴシップに熱中してしまうに違いない人であり、鍵穴をのぞき、他人の手紙を読み、引き出しを開けようと心をそそられてしまう人物に過ぎない」(ピーターバーガー『社会学への招待』1963)

 

 

 社会学(者)は、公式的見解の背後にある構造に興味を持つらしい。つまり、当たり前とされている事を疑う学問なのだと思う(多くの社会学科生が色んな場面でこう説明しているのではないかと、勝手に思っている)。

 生まれてから18年間も、当たり前の事に従順だった(つもりだ)僕にとっては、社会学を知ったのはまさに「運命的な出会い」だったと思っている。「当たり前を疑う」。こんなにも面白くてワクワクする考え方を知り、毎日の生活が飛躍的に楽しくなったと思う。

 

 

 

 さて、僕には「旅」「教育」「社会問題」という3つのキーワードがあり、中でも「旅」が全てのキーワードの原点になっているというのは前回説明しました。では、「旅」のきっかけは何だったのでしょう。

 

 

 

「唯人、明日は学校を休みなさい」

 

 小学校3年生の時に、父に突然言われました。太陽サンサン、太平洋真っ青という、南国・宮崎で生まれ育ち、毎日河原で走り回り、年中半袖短パンだった(クラスに一人はいたよね?)僕は、何の疑いもなく「うん、休む!」と言って、父の甘い言葉(文面上は)を素直に受け入れました。

 しかし、学校を休みなさいという父の「公式的見解」の背後には、日本に義務教育を設置し発展させてくれた人々も口が開いてふさがらないような、独自の教育方針(裏の構造)があったようです。

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*南国・宮崎の真っ青な海

 

  • 学校を休み、父の手伝いで日本全国へ

 その日を境に、僕はちらほらと学校を休むようになりました。1~2週間程度休み、学校へ行き、また休み…の繰り返しでした。何をしていたかと言うと、父と一緒に日本全国を自転車で周りながら、父の講演会を手伝っていました。

 

  • クラスメイトの素朴な疑問

 クラスメイトたちからは「どうして休んでたの?」と、ごく当たり前の質問を受けましたが、父の仕事内容を上手く伝えられなかったし、父は世間のお父さんたちとはズレていて恥ずかしいと思っていたので(中学生の頃に尊敬のまなざしになりました)、ちゃんとした返事はできなかった気がします。友達の理解としては、「松本君の家には少し(かなり)変わったパパがいるらしい」という所で落ち着いたのではないかと思います(当時のクラスメイトのみなさん、どうですか?)。

 

  • 旅が生んだ、好奇心

 父の教育方針は、「旅をさせる」「親がどんな仕事をしているか見せる」でした。毎回、「来週からOOへ行くぞ」と突然告げられ、九州男児頑固一徹父親に対して拒否権なんてなかったので、当時はとても嫌な気分で渋々ついていきました。

 学校や少年野球の公式戦を休まなければいけかったのは、小学生なりにとても辛い気持ちになりましたが、「旅」はとても魅力的に感じていました。北海道から沖縄まで、父が講演会を行う多くの小学校で1日体験入学をしたり(彼らは今何をしているのだろう)、スーツ姿のかしこまったオジサンたちがいる中で、せっせとお手伝いをする事は普段は体験できないもので面白いなと思っていました。小学生の頃に、様々な社会を見る事への好奇心が生まれたという点では、大学で社会学を専攻する上で少しは役に立っているのかもしれません。

 

 

 「次は一人で旅してみたい」

 

 ある日、父にこう告げていました。「よし、行ってこい」。父は、淡々と返事をしましたが内心はガッツポーズだったと思います。

 時すでに遅し。親子旅を始めて2年が経過し、僕は知らないうちに「旅」に魅了されていました。僕のキーワードの1つである「旅」が、産声を上げた瞬間でした。

 

僕のキーワード その1

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*今朝のランニング風景

 

 かわいい子には旅をさせよ。まさに、そんな家庭で育ちました。父は、エコロジスト。世界130ヶ国を自転車で旅し、環境問題の講演会活動を行い、日々の生計を立てています(立てているらしいです)。

 僕の趣味や個人的な活動を知っている方は、「唯人くんは、お父さんから大きく影響されているね」と言うかもしれません。疑う余地もなく、その通りだと思います。父からは、お上品で文化的な趣味を受け継ぐ事はできませんでしたが、かわりに「旅体験から学ぶ」というアグレッシブで時に強引な手段を受け継ぎました。色白で愛らしい顔をしていた幼少期の僕が、日に焼けた汗だくの少年に成長してしまったのも、父の影響(責任)かもしれません。

 

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*2011年(中学3年)スペイン・マドリード~モロッコ1000km自転車旅

 

 

 今日は、自己紹介をします。

 

 僕のキーワードは「旅」「教育」「社会問題」の3つだと思います。まず初めに、大学時代にどんな活動を行ってきたかを紹介します。

 「一人旅体験を伝える活動」を行ってきました。一言で表すとこのような表現になりますが、これでは活動における5W1H(「いつ」「どこで」「なにを」「誰が(誰に)」「なぜ」「どのように」)がさっぱり分かりません。

 僕の人となりについて知るには、実際に企業に提出したエントリーシート(ES)が一番分かりやすいかもしれません。では、以下の文章をご覧ください。

 

 

  • 新聞記者を目指すきっかけを教えてください(新聞社・ES)

 12歳から始めた一人旅の体験を伝える活動がキッカケだ。「平和と教育」をテーマに海外20ヶ国・日本全国を自転車で旅した。大阪西成区・一泊300円の宿生活、中国・南京の大学生との交流、ポーランドアウシュヴィッツユダヤ強制収容所への訪問などの体験を通して、見聞きし考えた事を各地で撮影した写真を使って伝える活動を行った。

 大学入学後に始めた、子供食堂や学習支援ボランティアで、子供の貧困問題を目の当たりにした。社会問題の解決には人々が主体的に考え取り組む事が必要だと感じた。自分にできる事は何か。社会問題について「知る場」を作ろうと思い、活動を始めた。

 大学2年生の夏から、地元・宮崎県の中学高校を中心に21か所で「共に伝え、共に考える」をコンセプトに授業を行った。体験と人との交流を通して、「知る」「伝える」「互いに考える」ことに、楽しさを感じた。「伝える仕事をやりたい」と思い、記者を目指すようになった。

 

 

  • あなたのアピールポイントは何ですか?(新聞社・ES)

 「旅費が、足りない」。2か月後、企業2社と18名の個人から協賛を得て旅に出た。主体的な行動力が、私の強みだ。

 2015年の夏、株式会社モンベル宮崎日日新聞社から協賛を得て、ドイツ・チェコポーランドを3週間、西日本を2週間、旅した。目的は、アウシュヴィッツや広島を訪れ、海外と日本の「負の遺産」から平和について考える事。一人旅体験を学校などで伝える事の二つだ。

 歴史を知り、「平和」を考える。「未来」を考える事も必要だと思った。ドイツでは、環境先進都市・フライブルクを訪れた。路面電車や自転車を活用した車のない「持続可能で魅力的な」街づくり政策について、現地の環境ジャーナリストから教えてもらった。帰国後、東京・渋谷から地元・宮崎間1500kmを自転車で旅し、滋賀県と宮崎県の高校で授業を行った。

 体験から物事を考え、発信する。自分にできる事から始めた。目標達成に向けて、妥協せず主体的に取り組む姿勢を活かしたい。

 

 

  ESからの引用なので、とてもゴツゴツした文章ですが、なんとなく僕の人となりの「一部」についてお分かりいただけたと思います。これを読んだ中高時代の友達は、「こんなまともなやつじゃない」「もっとふざけてただろ」と怒り心頭かもしれませんが、僕の高校以前のお話はまた別の機会にするので、大目に見てください。

 

 さて、僕のキーワードは「旅」「教育」「社会問題」と言いました。これらは、ひとつずつが独立してもいますが、混ざり合ってもいるようです。キーワード別で文章を書こうとしましたが、部分的に重なる点が多く、書けませんでした。(これは新しい発見です!)

 この3つのキーワードの原点は何なのでしょうか。おそらく、「旅」の始まりが他の2つのキーワードを生むキッカケになったのではないかと思います。では、旅の始まりはいったい何がキッカケだったのでしょうか。それは、僕が小学校3年生の頃にさかのぼります。

 

 

「唯人、明日は学校を休みなさい」

 

 ある日、父に言われた一言が全ての始まりでした。

 

ブログを始めました

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*今朝のランニング風景

 

 大学4年生になりました。会社勤めの経験はないけれど、おそらく「多くの時間を使ってやりたい事ができる」のは、残り1年間だと思います。イスラエル、ロシア、ケニア、中国・新疆…今すぐにでも行ってみたい国は挙げるときりがありません。しかし、現実は就職活動。地に足をつけて、自分の将来について考えなければいけない、と思っています。

 

なぜ、このタイミングでブログを始めたのか。理由は「新しい事を始めたいと思った」と「今の自分には書く事が必要だと思った」の二つです。

 

  • 身近なことから

 新しい事を始めると、毎日の単調な生活に変化が生まれると思います。僕は一人旅によって、非日常へ足を踏み入れ自分の生活に刺激を与えてきました。しかし、就職活動の期間は、バックパックを背負ってフラリと旅に出る事はできません。そこで、日常生活に刺激を与えるために、何か新しい事を始めようと思いました。

 身近でできる、新しい事はなんだろう。「やりたい事リスト」をパラパラとめくっていると、ずっと昔に書かれた「ブログをやってみたい」という文字が目に入ってきました。今回を機に始めることを決めました。

 

  • 面接官の一言

 大学2年生の頃から、新聞記者になりたいと考えていました。一人旅体験を伝える活動と多くの人との交流を通して、自分が体験した事を「伝える仕事」をやってみたいと思ったことがきっかけです。

 しかし、4月上旬に行われた第一志望の新聞社の一次面接で、あっけなく落ちてしまいました。「なぜ新聞記者になりたいのか」という質問に、上手く答えられなかったからです。正直、とても落ち込みました。面接に落ちた事よりも、なぜ記者になりたいのかを「上手く言えなかった事」に落ち込みました。厳密に言うと、私が語った「記者を目指す理由」や「将来やりたい事」は、面接官だった現役の記者から見ると「他に適職があるだろう」と思われたようです。 

 憧れの新聞記者に「あなたは、ベンチャー(企業)や政治家に向いている」(政治家は誇張表現だと思いますが)と言われたのは、悔しくもあり意外でもありました。面接官にとっては、初対面のよくわからない学生を、篩(ふるい)にかけるために何気なく放った一言かもしれませんが、僕にとっては改めて自分について考える一言でもありました。「真意はわからないけど、素直に受け取ってみよう」と思いました。これまでは、マスコミ一本で考えていましたが、選択肢を広げるという意味で、他の業界についても調べてみようと思っています。

 

 

  • とにかく書いてみよう

 

『書くプロセスにおいて手を動かすことによって、僕は考える』

『僕にとって小説を書くことは発見の旅なのです』

   (村上春樹 アンデルセン文学賞・受賞スピーチ 一部抜粋 2016年10月30日)

 

 村上春樹は、書く作業を「自己発見の旅」であると言っています。僕にとっては、自転車旅や毎朝のランニングで走る行為が、自分を知る時間です。それに加えて、僕も思いや考えを、ひたすら文章化してみればこれまで知らなかった何かを見つけ出せるかもしれないと思いました。

 自分が1年後に、どうなっているかはわかりません。「自己発見の旅」に成功し、上手く就職しているかもしれないし、まだ学生をやっているかもしれません(親には口が裂けても頼めませんが)。ただ、この1年間は、どんな事でも一生懸命に取り組もうと決めています。書くという作業を通して、影に隠れている自分の一面を発見できるといいなと思います。

 

 よろしくお願いします。